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vol.2 日本人は論語的なマインドである



中国古典と聞いてすぐに頭に浮かぶのが「論語」という方も多いかと思います。私も好きでよく読み返しますが、昨今では新一万円札の顔になる渋沢栄一が話題となり、その著作である「論語と算盤」を書店でよく見かけるようになった影響もあってか、「論語」への再注目というブームを感じます。

さて、この「論語」ですが、ご存じの通り、孔子の教えを後に弟子たちがまとめた書物で、孔子は儒教の開祖と言われています。

ところで、私たち日本人は「論語」をしっかり読んだことがなくても、「論語」に端を発する儒教というものに知らず知らずのうちに慣れ親しんでいることをご存じだったでしょうか。

今回はそんな「論語」のイントロと儒教、日本人との関りについてお伝えしてみようと思います。

■「論語」と孔子の不遇

儒教を語るうえで「論語」の話をしない訳にはいきませんので、先ずは簡単に「論語」と孔子をご紹介します。「論語」は孔子の教えをまとめた書物で、師匠である孔子と弟子たちとの間の問答の備忘録で、議論の答えという意味です。この「論語」のメインテーマを簡潔に言うと「人としての正しい生き方の追求」で、言うなれば生き方の指南書という書物です。※wikipediaもよければご参照ください。

孔子は苦労人です。諸説ありますが、婚外子で、生後間もなく父親が亡くなり、次いで母親も十代の頃に亡くなり、若くして天涯孤独、王宮に仕えていた時期もあったが、両親もいないうえに血筋もよくないため周囲からも冷ややかな目で見られていたそうです。だからこそそんな自分は学問でしか身を立てることができないと考え、独学で学問を身につけたと言われています。

弟子もとって学問を深めていましたが、30歳を過ぎた頃から乱れた政治を立て直したいとの思いから政治への参加を望むようになります。

けれども、その機会はなかなか訪れず、50歳を過ぎてようやく魯という国の要職に登用されましたが、時の実権者に睨まれてわずか4年で退任します。その後も政治の改革を遊説して回りますが、どこの国からも取り上げてもらうことができずに73歳で生涯を閉じました。

後世、生き方の指南書とまで言われた「論語」の孔子がどうして当時は不遇な目に遭っていたのでしょうか。

孔子が過ごしたのは春秋時代という時代ですが、王朝の権威が次第に弱体化する一方で、諸侯と呼ばれた地域の支配者たちが強大化していく過程にありました。

いわば、下剋上も狙えるような混沌としていて、武力が全てという時代において、孔子が説く仁(思いやりの心)という考えは現実を無視した理想論として当時の権力者からは見向きもされなかったという背景があります。

孔子本人も死後に自分の説いた学問が今日まで語り継がれている様子を見たら驚くと思いますが、当時は砂を?むような思いで過ごしていたのだろうと思われます。

■儒教とは

論語によって孔子が示した思想である儒教の中核となる徳目は「仁」というものでした。仁を簡単に言ってしまえば、相手を思いやる心というものです。

孔子が説く理想の政治とは、徳治政治と呼ばれ、徳をもった君主が国を治めることでした。国民を思いやる者が上に立てば国も丸く治まる。こんなイメージです。

「論語」が説く徳治を支えるものは五常、五輪という考え方です。

●五常 仁・義・礼・智・信
 仁 自分以外の人や社会に対する深い思いやり
 義 正しい行いをすること
 礼 仁を体現するために必要な心構えや作法
 智 道理をわきまえること
 信 社会から自分に対して向けられる心や評価

●五輪 父子、君臣、夫婦、長幼、朋友
 目上の者に対する尊重と身分関係

ざっと目を通しただけでも、小さい頃から教えられてきたことばかりではないでしょうか。「他人に優しくしなさい」、「嘘をついてはいけない」、「礼儀作法を覚えなさい」、「目上の人を敬いなさい」、きっとこのように親や先生などなどから教わったはずです。

なんだ当たり前のことばかりかと思われるかもしれませんが、こうした考え方は儒教の考え方そのものです。それだけ日本人にとって儒教の考え方というものが浸透している証拠でもあると思います。

■日本への伝来と発展

儒教が日本に伝わったのは飛鳥時代以前と言われていて、仏教よりも先に伝わりました。聖徳太子が立案した十七条憲法の書き出しにもこうあります。

「和を以て貴しと為す」

これだけ見ても、論語が一貫して唱える仁の発想に他ならず、儒教の考え方が色濃く反映されているのがわかると思います。

その後、日本では仏教の教えの方がよく広まり、各地で隆盛し、儒教はその主役の座を追われますが、鎌倉時代、室町時代に主に武家が儒教を取り上げて学んでいきました。

さらに室町時代後期、江戸時代になると儒教は朱子学という学問に発展し、藤原惺窩という儒学者が本格的に研究し、その弟子である林羅山が朱子学者として江戸幕府で重用されることになりました。

儒教はもともと権力追従的で、下は上に従うべきという倫理感が基盤になっているため、当時は仏教勢力の政治への影響力を排除したいという為政者にとっては治世の道具として都合のよい思想という理由で儒教=朱子学が取り上げられた背景があります。

江戸時代後期には寛政の改革を主導した松平定信がその施策のなかで、朱子学以外の儒教を異端として禁じる「寛政異学の禁」を施行し、儒教の徹底を図りました。

江戸幕府が300年もの間継続できた大きな理由のひとつとして儒教をベースにした政治を行ったからと言われています。為政者にとっては儒教的な考えを大義名分とすることで、政治がしやすかったのでしょう。

目障りな大名の権勢を削ぐためにも忠君を徹底させ、気に入らない大名らは礼を失した行いがあったとして処罰をするなどして江戸幕府が権力構造を盤石にしたことが容易に想像できます。

江戸幕府だけでなく、幕末の志士として有名な吉田松陰らも孟子が説いた儒教を熱心に学んでいたことも有名ですが、社会全体が儒教一色となっています。さらには明治時代に「教育勅語」が発布されますが、家父長制度を中心にした教えで日本人の道徳観は儒教によってその方向性が決定づけられたと言えます。

■儒教の現代日本人への影響力

「恥の文化」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。アメリカの著名な文化人類学者ルース・ベネディクトという人が戦時中の調査結果をもとに戦後の1946年に「菊と刀」という著作の中で、日本文化を評して使った表現です。

日本人は他人の感じ方と自分の体面とを重視する行動様式によって特徴づけられている、この行動様式が「恥の文化」と言われています。

併せて、外国人が感じる日本人や日本文化についての特徴をまとめてみます。

・目立つのを嫌がる
・相手への気遣いで、遠回しな言い方をする
・人に意見を合わせる
・あまり感情を表に出さない
・マナーやルール、時間を真面目に守る
・社交辞令が多い

日本人の特徴を端的に言うと本音と建前を使い分け、自己主張しないという点にあるかと思いますが、これらの特徴は良くも悪くも儒教による教育による結果だと言えそうです。

論語の中にも、こんな教えがあります。

●君子は義に喩り、小人は利に喩る
(行動に際して、義を優先させるのが君子、利を優先させるのは小人)

個人的な利益を追求することはみっともない、常に公の利益を考えるべきだという意味ですが、これを貫くと、内心では個人的な利益を得たいと思っているのに、人の目を気にしてそれができないということになります。

昔から「武士は食わねど高楊枝」という言葉がありますが、要はやせ我慢して本音を言わない、言えないということです。

もう少し恥の文化について言及すると、他人の感じ方と自分の体面とを重視するということは、逆に言えば、人が見ていないところではいい加減でもある訳です。

例えば、街中で人が多いところではゴミをポイ捨てするのは人目があるので気が引けるけれども、誰もいないところなら平気でゴミを捨てるといった行動です。(日本人は民度が高い方かもしれませんが、そこまで品行方正ではないと個人的には思います。)

■日本人の古典離れとその影響

日本人の読書離れというのも定期的に言われることですが、1ヵ月で一冊も本を読まないという人が半数くらいだそうです。読書をしないなんてけしからんとは全く思わないのですが、知識や知恵を学ぶ機会や考える時間が減ってしまうと読解力や思考力の低下にも繋がりかねません。

そうなると、論語をはじめとする古典なども読まれなくなると思われますが、結果として儒教を基盤にしてきた日本人の道徳観などにも変化が生じているような気がします。

古典も教養のひとつとして嗜み、信念がある政治家や松下幸之助のような経営者も減ってしまい、その後はバブル経済といった拝金主義、その後の失われた30年、相次ぐ大企業の不祥事、論語が説いてきた理想が次第に崩れてきた印象があります。

社会全体ではどんな方法でも金を稼げればいい、会社の存続のためなら従業員を劣悪な環境で使い捨てればいい、残念ですが勝てば官軍という考えの経営者も増えたような気がします。

政治においても、企業活動においても、自分の上位にいる存在が人徳を感じられない人間ばかりでは、モラルのない社会に変わってしまうのかもしれないと危惧しています。

また、昨今起業して成功し、いち早く事業を売却してひと財産を築くことを目的としたFIREなどももてはやされていますが、会社は社会の公器という側面があるというのも今は死語になりつつあります。

言うなれば、現代は人としての在り方の指針がない時代なのかもしれません。

■儒教の悪影響の側面か

また、本音と建前の文化では嫉妬や批判なども内心で蓄積されていくものかもしれません。

妬ましく感じる成功者が没落したり、不祥事を起こした場合など、気に入らない対象に対しては匿名性をよいことにネット上で誹謗、中傷を際限なく書き込んでみたりする行為も年々増えたような気がします。

これもまた儒教の影響と言うにはいささか飛躍した感じ方かもしれませんが普段は物静かな様子であっても心の中は混沌としている人は多いのではないかと思われます。

確かに思ったことを言葉に出来ないのは鬱屈してしまうこともありますが、他人に対する寛容さや受け流すしなやかさも不足しているのかもしれません。その意味では、徳というものを学ぶきっかけとして中国古典を手に取ってみても良いのかと思います。

■まとめ

中国古典を学ぶことの意味や価値についてお伝えしたいと思いながら、儒教の開祖である「論語」についてネガティブな印象も与えてしまったかもしれません。

私個人としては、「論語」で説いている全ての考え方を肯定するつもりはありませんし、むしろ「論語」はあまり好きではないかもしれません。時代も変わりますし、人間にはさまざまな欲求もありますから、教えというものは無批判に受け入れることでもないと思うからです。

ただ、儒教が伝わった歴史や経緯なども知っておくと、好きも嫌いもなく私たち日本人は儒教、論語的なマインドによって形づくられているという事実を出発点にして、自分はどう考えるべきか、在るべきかを考える機会になるかと思います。

中国古典には「論語」以外にも優れた書物も多数ありますし、自分が共感できる考え方を取り入れていけばよいのかと思います。個人的には、「論語」以外では「貞観政要」、「韓非子」、「菜根譚」などが自分の好みに合います。

皆さまにとっても、きっと自分の考え方にしっくりくる中国古典があると思いますし、いろんな考え方を知るためにも論語をはじめ他の中国古典を手に取ってみるのもよいかもしれません。

最後までお読みいただきありがとうございます。



株式会社コナトゥスマネジメント 代表  平原 孝之


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